オカネについて(2)

みなさんこんにちは。校長の高野です。

「いなかに移住しようと思うのですが、オカネのことが心配で・・・」という声をよく聞きます。無理もないですね。オカネの心配とどうつきあったらよいでしょうか。

まず、オカネは数字です。ですので数字で解決する他ありません。暮らしについては、入ってくる金額を見積もって、その範囲内の支出で月々を暮らしていけるか、と考えればよい。年間の収入と支出をすべて書き出して、支出のほうが多ければどこを削るか考える。簡単です。

もちろん、みなさんの心配は、いくら収入があるのか、ということですね。ある程度アタリをつけていても、本当にそううまくいくのか、うまくいかなかったらどうするのか。そこはもう他の人はアドバイスしようがありません。がんばってね、と言うしかない。

ただいくつかヒントがあります。

まず大きな経済の仕組みを理解すること。といっても難しいことではありません。そこに人が住んでいれば、衣食住エネルギーのニーズが必ずあります。医療、福祉、教育のニーズも確実です。生活にどうしても必要なものを、お互いに得意なことをやって供給しあう。これが経済の基本です。ちゃんとニーズに見合うものを供給すれば食いっぱぐれることはありません。食いっぱぐれそうなことになったら、ニーズに合っていないと考えて、軌道修正すればよい。何度か試行錯誤していればいい線にはまってきます。

次に、オカネは天下のまわりもの。オカネは使わなければ入ってきません。このとき注意すべき点は、いいオカネの使い方をするということ。環境や働く人に害を及ぼしているにちがいない安物を買うのはやめてください。心をこめてものやサービスを提供している人のものを買ってください。そうすれば、いい形でオカネが入ってきます。これはオカネに限りません。「宇宙貯金」というのを聞いたことがあるでしょうか。目の前に困っている人がいたら、損得勘定抜きで助けてあげる。手伝ってあげる。そうすれば、目に見えない銀行預金に見えないオカネが貯まります。それはいつか、どこか別のところから返ってくるということ。

どこかで聞いたような話ですね。そう、この世はご縁でできているという話です。実は、オカネというのはご縁が目に見える形になったものです。どうやったってご縁の網の目の中であなたも生きているのですから、心配することは何もありません。ちゃんとオカネは入ってきます。

・・・いやいやそれでも心配ですって?

心配してもしなくても状況は変化しないのですから、心配しなければよい。いえ、実は違います。心配していたら、心配したような状況がやってきます。心配しなければ、だいじょうぶです。自分の心持ちひとつとも言えます。「そんな無責任な・・・」と言われそうですが、これは私の経験則です。でも私ひとりが言っていても説得力はありませんね。実は、古今東西の宗教は、「心配しなさんな、あらかじめ準備されているから、だいじょうぶ」ということを教えています。聖書の一節を見てみましょう。

「なぜあなたたちは着物のことで思い煩うのか。野の草花がどのように育つか、よく見つめよ。労することをせず、紡ぐこともしない。・・・栄華の極みのソロモンですら、これらの草花の一つほどにも装ってはいなかった。・・・『何を食べようか』とか、『何を飲もうか』と言って思い煩うな。・・・というのも、天のあなたたちの父は、あなたたちにはこれらすべてが必要であることを知っておられるからである。むしろまず、神の王国と彼の義を求めよ。そうすれば、これらすべてのものはあなたたちに付け加えられるであろう。」(『新約聖書』岩波書店2004年p.93-94)

キリスト教も仏教もこの点に関しては同じです。それだけみんなが心配性な証拠ですが、私が指摘したいのは、実はオカネの心配というのは、世界観や宗教観にかかわるけっこう深淵な問題なのだということです。オカネの心配を入り口に、この際しっかり哲学してみましょう。

これでも心配な人は、まだ移住について心の準備ができていないということですね。その段階で無理して移住しないでください。「何とかなる、何とでもなる」と思えたときがその時です。ひとりでうじうじ考えていてもけっしてそう思えるようになりません。いなかに通い、先輩や仲間たちと手を動かし足を動かして考えていると、そのうちピンとくるときがやってきます。ミライの職業訓練校はそういう形でオカネの心配を解消できることを約束します。

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