引き算で見つける

みなさんこんにちは。校長の高野です。

「自分が何をやりたいのか、まだよくわからなくて・・・」という声もよく聞きます。自分のやりたいことがはっきりわかるということはとても大切ですね。文字通り三度のメシより好きなこと、寝食を忘れて没頭できるものをもっている人は幸せです。だいたいプロの仕事というのは、そういうレベルでなければ成り立ちません。

それを探して行き当たるのがなかなか難しい。「あれもこれも手を出してみましたが、どれも中途半端で・・・」というお話もよく聞きます。何か自分に技術や知識をつけることによって、やりたいことが見えてくる・・・というのが多くの人がとっているアプローチですね。「足し算」のアプローチと言えるでしょう。それで勉強して資格をとったりしてみますが、どうもぴったり感がない。場合によっては「資格ビジネス」の罠につかまってしまいます。

そこで、「引き算」のアプローチはどうでしょう。つまり、自分がやりたくないこと、いやなこと、気が進まないことを、徹底してやめてみるということです。そうすると最後に残ったものが、自分がやりたいことかもしれません。あるいは、何もなくなってしまうかもしれません。それでOKですね。白紙の状態から世界全体を見渡して、気になるところに突っ込んでいけばよいのです。

「えっ、そんなこと言われたら明日から会社いくのやめちゃうよ・・・」というあなた。会社をやめてみましょう。毎日イヤイヤ会社に行って大事な時間とエネルギーをとられている間は、やりたいことを見つけるのは難しいですね。

もちろん、あなたが都会に暮らしているのなら、これはやめてください。明日から路頭に迷います。都会では食べるものの住むところも、オカネを払って購入しなければなりません。それでいきなりオカネが入らなくなったら生活に行き詰まってしまいます。

一方、いなかに住んでいるなら、こういう無茶ができるのです。いなかなら、大きな古民家に田畑と山がついて、月2万円という世界です。コメと野菜を自分でつくれば、食べるものに困りません。集落のおじさんおばさんができた野菜を持ってきてくれることもよくあります。裏山で木を伐って薪をつくれば、お風呂と冬の暖房はOKです。これだけあれば死にません。オカネを稼ぐためにイヤなことをイヤイヤやる必要はありません。イヤなことは徹底してやめてみましょう。

私は山口県のいなかで生まれ育ち、科学者になりたいと思って都会の大学に入学しました。ところが、うまく都会になじめませんでした。みごとに不適応ですね。私が一年生のときにとった授業の単位は1.5単位。まったく勉強する気がうせてしまいました。こんなところにはいられないと大学を離れ旅に出ました。いなかのユースホステルでヘルパーというのをやりながらあちこち転々としました。ヘルパーというのは、寝るところと食事は確保されます。朝食のお世話と掃除が終わって、夕食の準備がはじまるまで自由時間で好きなことができます。少ないですがお給金も出ます。それがある程度貯まったら旅に出て、オカネがなくなったらまた旅先のユースホステルでヘルパーとして使ってもらう・・・気楽なものです。そういう暮らしを2年ほどしました。その間、まったく勉強はしませんでした。読む本といえば文学ばかりでした。

でも不思議ですね。2年間まったく勉強しないでいたら、勉強したくなってきたのです。たまたまそういうタイミングで働いていたユースの経営者のお兄さんだったと思いますが、いっしょにお昼ごはんを食べているときに、ふと指をみると、でっかいこぶがあるのです。私はびっくりしてどうして?と聞くと、そのおじさんは、「自分は公務員をずっとやってきた、このこぶはペンだこで、その勲章だよ」と言うのです。今ではなんでもパソコンでやるのでペンだこはできませんが、当時はそういうものはありませんでしたので、書類はすべて手書きだったわけです。私は感心してしまいました。

ひるがえって、自分にとっての「ペンだこ」は何だろうか、と思ったわけです。やはり学問ではないかと。フツーの人がやらないことで、自分ができることといったら、ひたすら勉強することだろうと。そこからまた一波乱どころかいくつも波乱があった末ですが、私は大学に復学しました。つごう7年かかって学部を卒業し、大学院に進学して、これも紆余曲折ありましたが、大学の先生になって今に至るというわけです。私は学問的な議論なら丸一日でもやっていられます。小難しい内容の講義や研究発表などを聞いていてもまったく眠くなりません。これでも理系の学者ですので、数式をひねくりまわしたり、コンピュータのプログラムを書いたりするのには、それこそ寝食を忘れて没頭できます。まあ学者というのはオタクの元締めというか、「プロのオタク」ですね。こういうところが私の「ペンだこ」でしょうか。

自分にぴったりする働き方とは、自分のやりたいことと、周りから求められ、期待されることが一致するということだと思います。「周囲から期待される」というのはもう少し正確に言うと、「周囲から期待されるだろうと自分が期待すること」というべきかもしれません。周囲は何か実績がなければ期待しないので、これからやるということについて誰も期待してくれません。むしろ、「これは自分がやらなければ誰がやる」、「自分ほどこの仕事にふさわしいものはいない」という気持ちに自分がなる、ということではないでしょうか。そういうものが見つかるまで、ひたすら引き算の暮らしをしてみることをオススメします。そのためにミライの職業訓練校は、あなたが普段目をそむけて「自分をだましていること」を、無情にもはっきりと認識できるよう、よってたかってお手伝いします。

 

 

オカネについて(2)

みなさんこんにちは。校長の高野です。

「いなかに移住しようと思うのですが、オカネのことが心配で・・・」という声をよく聞きます。無理もないですね。オカネの心配とどうつきあったらよいでしょうか。

まず、オカネは数字です。ですので数字で解決する他ありません。暮らしについては、入ってくる金額を見積もって、その範囲内の支出で月々を暮らしていけるか、と考えればよい。年間の収入と支出をすべて書き出して、支出のほうが多ければどこを削るか考える。簡単です。

もちろん、みなさんの心配は、いくら収入があるのか、ということですね。ある程度アタリをつけていても、本当にそううまくいくのか、うまくいかなかったらどうするのか。そこはもう他の人はアドバイスしようがありません。がんばってね、と言うしかない。

ただいくつかヒントがあります。

まず大きな経済の仕組みを理解すること。といっても難しいことではありません。そこに人が住んでいれば、衣食住エネルギーのニーズが必ずあります。医療、福祉、教育のニーズも確実です。生活にどうしても必要なものを、お互いに得意なことをやって供給しあう。これが経済の基本です。ちゃんとニーズに見合うものを供給すれば食いっぱぐれることはありません。食いっぱぐれそうなことになったら、ニーズに合っていないと考えて、軌道修正すればよい。何度か試行錯誤していればいい線にはまってきます。

次に、オカネは天下のまわりもの。オカネは使わなければ入ってきません。このとき注意すべき点は、いいオカネの使い方をするということ。環境や働く人に害を及ぼしているにちがいない安物を買うのはやめてください。心をこめてものやサービスを提供している人のものを買ってください。そうすれば、いい形でオカネが入ってきます。これはオカネに限りません。「宇宙貯金」というのを聞いたことがあるでしょうか。目の前に困っている人がいたら、損得勘定抜きで助けてあげる。手伝ってあげる。そうすれば、目に見えない銀行預金に見えないオカネが貯まります。それはいつか、どこか別のところから返ってくるということ。

どこかで聞いたような話ですね。そう、この世はご縁でできているという話です。実は、オカネというのはご縁が目に見える形になったものです。どうやったってご縁の網の目の中であなたも生きているのですから、心配することは何もありません。ちゃんとオカネは入ってきます。

・・・いやいやそれでも心配ですって?

心配してもしなくても状況は変化しないのですから、心配しなければよい。いえ、実は違います。心配していたら、心配したような状況がやってきます。心配しなければ、だいじょうぶです。自分の心持ちひとつとも言えます。「そんな無責任な・・・」と言われそうですが、これは私の経験則です。でも私ひとりが言っていても説得力はありませんね。実は、古今東西の宗教は、「心配しなさんな、あらかじめ準備されているから、だいじょうぶ」ということを教えています。聖書の一節を見てみましょう。

「なぜあなたたちは着物のことで思い煩うのか。野の草花がどのように育つか、よく見つめよ。労することをせず、紡ぐこともしない。・・・栄華の極みのソロモンですら、これらの草花の一つほどにも装ってはいなかった。・・・『何を食べようか』とか、『何を飲もうか』と言って思い煩うな。・・・というのも、天のあなたたちの父は、あなたたちにはこれらすべてが必要であることを知っておられるからである。むしろまず、神の王国と彼の義を求めよ。そうすれば、これらすべてのものはあなたたちに付け加えられるであろう。」(『新約聖書』岩波書店2004年p.93-94)

キリスト教も仏教もこの点に関しては同じです。それだけみんなが心配性な証拠ですが、私が指摘したいのは、実はオカネの心配というのは、世界観や宗教観にかかわるけっこう深淵な問題なのだということです。オカネの心配を入り口に、この際しっかり哲学してみましょう。

これでも心配な人は、まだ移住について心の準備ができていないということですね。その段階で無理して移住しないでください。「何とかなる、何とでもなる」と思えたときがその時です。ひとりでうじうじ考えていてもけっしてそう思えるようになりません。いなかに通い、先輩や仲間たちと手を動かし足を動かして考えていると、そのうちピンとくるときがやってきます。ミライの職業訓練校はそういう形でオカネの心配を解消できることを約束します。

オカネについて(1)

みなさんこんにちは。校長の高野です。今日はオカネの話をします。

「商売は/あきない/どうしてあきないなんだろう

おもしろくて/おもしろくて/しかたないから/あきない

いつもおもしろい/だから笑い顔/笑顔がたえない/そんな笑売めざします」

ある魚の直売店の壁にかかれていたものです。楽しそうですね。もちろんコピーライターが考えたのだと思いますが、経営者の気持ちが伝わってきます。

なぜ商売が楽しいのか。ひとつは、自分が選んだもの、作ったものがお客さんに買ってもらえる、という楽しさがあります。買ってもらうということは、評価してもらうことです。それが売り上げのオカネという形で見えることになります。これは楽しい。本当によいもの、人々が切実に欲しているものを作り売れば、結果として売り上げや利益がついてくるわけです。

でも落とし穴があります。オカネを稼げるようになると、往々にしてそのこと自身が目的になります。稼いだオカネの金額が楽しみの源泉になります。そうなると本末転倒ですね。これが進むと、オカネがオカネをうむことを追求しはじめます。株やFX、そしてギャンブルですね。

オカネには「物神性」があるという指摘をしたのは、『資本論』を書いたカール・マルクスです。オカネは単なるモノ(昔は金であり、紙幣はその引き換え券でした)なのに、人間よりエライ「神さま」の地位を得てしまう。人間がオカネに命じられオカネに奉仕するために生きることになります。強盗、詐欺などオカネめあての犯罪は今もあとをたちません。古今東西オカネによる悲劇が無数に生まれています。

オカネは今やモノではありません。銀行通帳の数字だったり、銀行のコンピューターのメモリに記録されている数値だったりします。つまり情報ですね。だんだん訳が分からなくなってきますが、それでもオカネは厳然として私たちの心を支配しています。なぜそれほどの力をもてるのでしょうか?

みなさんがある会社に投資したとします。それでその会社は商品を生産して販売し、利益が出て、みなさんは配当を受け取ります。戻して欲しければ元金も戻ってきます。つまり最初に投資されたオカネよりも利益分だけこの世界のオカネが増えたことになります。一方、みなさんがある商品を買います。対価として販売者にオカネを払います。その商品は消費されてこの世からなくなります(正確にいうと廃棄物になります)。ところが対価として支払われたオカネは決してなくなりません。つまり、生産された商品はどんどん消滅するけれども、オカネは消滅することなく、増え続ける一方です。魔法のようですね。

その魔力が人間をとらえてしまうのです。そのうち、あたかも人間の意を介さず、オカネがオカネをうむ、「自己増殖」がおこるように見えます。そのような「主体性を持った」オカネをマルクスは資本と呼び、人間でなく資本が主人公になった社会という意味で、近代の社会を資本主義社会と呼んだわけです。

私たちがオカネの魔力に対抗するにはどうすればよいでしょうか。

一つの取り組みは地域通貨です。シルビオ・ゲゼルが提唱した「腐る通貨」です。つまり一定期間しか有効でない貨幣。蓄えることはできず、増殖もしません。この地域でもおむすび通貨やモリ券という有効期限つきの地域通貨の取り組みがあります。

もう一つは私たちの心の持ち方です。オカネは情報にすぎません。それを神とあがめるのは滑稽です。私たちの心の持ち方ひとつでそれは避けられるはずです。インドの貧しい農村で開発支援をしている友人がfacebookですばらしい言葉を紹介してくれました。

“Money does not bring happiness but the happiness brings us the money.–Tola Soun “

「オカネは幸せをもたらさないけれども、幸せはオカネをもたらす。」

本末転倒を戒める言葉として、心に刻みたいものです。

参加者は企画者です

みなさんこんにちは。校長の高野です。

ミライの職業訓練校は普通の職業訓練校というか学校というものとはまったく違います。普通は企画者・主催者がいて、プログラムやカリキュラムを作って、講師も準備して講義や実習をやります。あらかじめ獲得目標が明らかで、それに向けてもっとも効率のよいやり方で学びを組織します。

そういうやり方で、新しい暮らし方・働き方が切り開けるでしょうか。正解が一つあり、それに到達するためになにごとも早く、効率的に。こういうやり方は、成長型社会の流儀です。こういう思考や行動の「型」から抜け出すことが、私たちにまず求められるのではないでしょうか。

そこで、ミライの職業訓練校には、カリキュラムというものはありません。事務局が準備するのは、参加者どうしがつながり、また参加者が豊田市のいなかの地域とつながる場を提供することだけです。具体的な企画の中身は、参加者がつくっていくということになります。ですので、参加者が自分で考えて動かない限り、ここで学ぶことは何もありません。

「はぁ?」と思われる方もいるかと思います。ですが、こういうやり方が今求められる「職業訓練」のあり方だと私は思います。何もないところからプロジェクトを立ち上げていく。どこをめざすのか、どういう方法があるのか、まったく不明なところから、徹底して対話を重ねながら、理念を掲げ、紆余曲折しながらよい道筋を見出していくこと。これは、新しい時代が開こうとしている今、どういう職種・分野でも求められる力です。

実践コースと言っているのは、参加者が必要とする暮らし方やスキルを学ぶプロジェクトを参加者自身が立ち上げ実践する、ということです。講師へのコンタクトや交渉もすべて参加者にやっていただきます。基礎コースと言っているのは、このようなプロジェクトの企画をするプロセスということです。

スタッフにはこのようなプロジェクト組成をいくつも手がけてきた人がいます。私たちは必要な援助をしますが、必要でないことはやりません。厳しく見守ります。むしろ、私たちのもっているノウハウや知恵を積極的に「盗み」、活用してください。大いに「盗み」がいのあるものを提供できる自信はあります。みなさんも新しい職業訓練のあり方を切り開く一員として、私たちとともに汗を流してください。

天職(2)

みなさんこんにちは。校長の高野です。

ここにも天職をやっている人がいます。戸田友介さんは豊田市から委託されたプロジェクトの責任者として旭地区に移住しました。当初は有機野菜の生産と販売でおカネを稼ぐことを事業の目標にしていましたが、思ったようにはすすまず、プロジェクト崩壊の危機をへて、地域を支えることで地域に暮らすことを目標にすえ旭地区のファンを増やす事業を行ってきました。田んぼでのコメづくりやダイズづくりを都会の人に来てもらってトラストで行っています。

そしてこのたび、高齢のためにやめるという新聞販売店の事業を引き継ぐということになりました(地域の新聞販売店がなくなれば、新聞は郵便でお昼にしか届かなくなるのです)。新聞販売店が戸田さんの天職というわけではありません。彼の天職とは多くのスタッフとさまざまな仕事をシェアする体制をつくりだすということでしょう。そのことで彼はこの地が暮らしつづけるに値するものであるという価値をつくりだしているのではないでしょうか。

長いですが以下に戸田さんのfacebookへの投稿を引用します。8月8日のミライの職業訓練校の初日には戸田さんの話もナマで聞けます。ぜひどうぞ

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【山里の新聞屋さん】

やっと落ち着いてきました。実は5月1日から、旭地区の一部と小原地区全域の新聞販売店を引き受けることになり、毎日皆さんの元へ中日新聞をはじめ、各紙、スポーツ紙、雑誌などのお届けをしています。

昨年の10月、一本の電話がありました「旭のなかで唯一ある新聞販売店がご高齢でやめるかもしれない。誰か引き継いでやってくれる人はいないだろうか。」 と。1ヶ月ほどいろいろな人に声をかけてはみましたが、そう簡単に引き受け手は見つからない。このままだと、昔のように朝刊が全部郵送で昼過ぎに届くよう になってしまうかもしれない。

地域の情報インフラのひとつであり、地域に残る業種のひとつであり、見守りネットワークのひとつでもある。「誰もやらないなら、自分で引き受けよう。仕事 もみんなで分け合えばできるはず。」と、11月12月と、中日新聞の方と打ち合わせと面談を繰り返し、最後は嫁さんも同席して決めました。打ち合わせの中 で、隣の小原地区もあわせてやってほしいとのことで、いつものことだけど、案外「決断!」という感じでもなく自然とそうなりました(笑)

新聞販売店の経験は今までにないし、人とお金の工面を3ヶ月程度でしていかないといけない。新聞を取り巻く課題は今も将来に渡ってもいくつもある。新聞配達を今まで通りを続けていて、安泰なことはない。
でもそれは、この時代を、この日本で、この地域で、家族と一緒に、仲間たちと一緒に生きていくも結局同じこと、柔軟に変化しながら、カタチづくってミライへ引き渡していくことはかわらない。

課題を乗り越えながら事業を引き継いだ上で、全国の地域密着で地域に貢献している新聞販売店の事例も勉強しながら地域に愛される新聞販売店でいられるといいなと思う。

という感じで、11月に開業趣旨を書いて、いろいろ挨拶まわりからはじまりました。

完全に引き継ぎをして、3ヶ月ほど。引き継ぎ期間からいれると、3月から5ヶ月間、毎日2時に起きてお店にむかい、3時に新聞が届いて、配達できるように チラシをいれて、仕分けをして、配達できるようにする、日によって配達もする。日中はチラシを組んだり、事務の仕事もある。  という話をすると、大変 だぁぁぁぁということになるんだけど、ひとりでやっているわけではなく、今まで配達や集金をしてくれていた人、新しく配達やチラシの折り込み、事務の仕事 を引き受けてくれた人、総勢35人ほどのスタッフで少しずつ分担しながらの毎日です。引き継ぎから当初覚えていくまでは、2重3重の時間が必要だったので 大変だったし、ぼくはもう少しの期間、朝はお休みできないけどね。

そう、様々な人がはたらいている。地域で産まれ育って地域のこともしっかりやりながら毎日朝から晩まではたらいている人、35年も前に先駆的に移住してさ まざまな仕事をこなし暮らしをつくってきた人、夫婦仲良く配達をする人、高齢では考えられない屈強な足腰で毎日走りながら配達をする人、年を重ねながらも ゆっくりと家の近所を歩いて配達をする人、お子さんたちは自立して朝の時間に配達ができる女性、コミュニケーションは少し苦手だけどどこでも覚えて配達が できる人、障碍をもっていてフォローがあれば配達できる人、朝は配達で稼いで昼は野良仕事をする人、毎日配達をする人、週1,2回配達をする人、出勤前に 配達する人、集金のみを丁寧にまわってくれる人、早朝だからできる、昼だからできる、子どもの送り迎えの間ならできる、子連れでチラシの折り込みや事務を する:ぼくもだけど(笑)。

若者から年配のかた、男性、女性にかかわらず、自分のできるペースで、自分のあうポジションを、家族の体調が悪くなれば他の人がカバーすることもある、自 分の都合だけで独りよがりにならずに、読んでくれる購読者の人、他のスタッフのことを考えて、うごく、素敵な人たちがはたらいてくれています。

「新聞」という、旧い媒体が(言い方は悪いですが変化は必要という意味で)、「新しい」情報インフラになるとすれば、「つながり」をベースにして、地域に 住み続ける人が「はたらく」ことの中にヒントがあるような気がしています。これは何も新しいことではなく、昔から山里で続けてきて今も残っている「ありか た」。

ぼくの山里の新聞屋さんとしてのシゴトは、この「ありかた」を関わる人すべてが大切に思える雰囲気をつくること、気持ちよく分け合える、ここにいられる関 係性を購読者のみなさんとスタッフのみなさん、各新聞社や折込広告をだしてくれるかたなど、多くのみなさんと紡いでいくことの2点かなと思います。

山里の新聞屋さん以外は、今まで通り、田んぼや畑、さまざまな企画や、合唱団や、地域の役割や、家のこと(第3子が産まれて6月からはウエイト大)をして います。だから、本業な何かと聞かれても、今まで通り、全部大切なシゴトです(笑)そして、具体的にやっていることは単純な作業の積み重ねです。
だけども、すべてが重なり合っているので、ひとつひとつを切り離して考えることができないと言ってもいいかもしれません。

あえていうならば、今までも、今も、これからも常に柔軟に変化し続けながら、分け合ったり、重なり合ったり、そういう「ありかた」「関係性」「生きかた」を紡いでいくことをシゴトにしていきたいなと思います。

今日も元気に自然体で☆

小渡小原販売店 戸田新聞店
代表 戸田友介
〒444-2811 豊田市太田町蟹田6番地
tel 0565-77-7648 fax 050-3488-9128

 

天職とは

みなさんこんにちは。校長の高野です。

 みなさん、今やっている仕事は自分の天職だと思いますか?そう自信をもって言える人は幸せですね。でもなかなかそういう人はいないのではないでしょうか。自分の天職とかライフワークとかいうものは何だろう。いつも思いますよね。

 天職に行き当たるには、自分は何がしたいのか、まずつきつめなければ・・・と思う人も多いと思います。でも、これはビギナー(笑)ですね。自分は何がしたいのか、自分で分かるでしょうか?自分さがしの旅に出てもなかなか見つかりません。「これだ」と思うものが見つかったように思っても、実際に実現しようとすると、うまくいかないことが多いと思います。実現しないものは天職にはなりませんね。

 なぜか。天職というのは英語のcallingの訳語なのです。直訳すれば、「呼ばれるということ」です。誰に呼ばれるのか。西欧では神様からです。つまり、自分が何をしたいのか、ということではなく、「神があなたに(あなたの意思にかかわりなく)与えた役割」ということです。

 私は残念ながら西欧で言う神さまというのがピンとこないのですが、同じことを日本人にもなじみの深い「ご縁」ということで説明することができます。この世はすべてご縁でできているのです。ご縁というのは、それぞれの人がそれぞれに役割を与えられて、この世ができているといことです。誰にもただ生きているだけで、いろんな役割があります。特にその役割が「はまり役」になっている状態。これが天職ということだと思います。

 具体例で。私は仕事でワークショップのファシリテータをする機会がけっこうあります。もともとそういうことをやりたいとか、やろうとして専門の勉強をしたとかいうことではありません。私は地球物理学というカタイ(笑)学問をやっていましたので、ワークショップなども経験したことはありませんでした。ただ環境学の分野に参入してから、いろんな人が話し合うというような場面にたくさん遭遇するようになりました。そうすると、そのうち、けっこうな人数の会合の司会進行をやってほしい、という話がきました。企画メンバーのほとんどが発言者になるので、手があいていたのが私だけだったという事情です。つまりご縁ですね。こういうのは苦手だなーと思いながら断れなくてやってみると、なんとかできました。

 そうこうしていたら、あるプロジェクトで、日本ではファシリテータとして第一人者のひとりの方が世話役となって行う事業に参画することになり、その方のやり口を目の前で経験する機会がありました。まさにご縁でした。そこでとても印象的なことがありました。プロジェクト本番直前のあわただしい中で、緊急の打ち合わせやろうということになった時、その方は、まずわざわざ重たいいすを動かして、みんなが向かいあって座れるように場をつくりはじめたのです。私はピンときたのです。そうか、常に参加者が対等な立場でかつ全体を見渡せる関係性の中で気持ちよくコミュニケーションをとれるように場をつくるのがファシリテータの仕事なんだと。オモシロイ!と思ったのです。

 それから、不思議なことに自分にもそういうことをやってほしい、という依頼が来るようになりました。もちろん本を読んだりして勉強しましたが、あとは見よう見真似でファシリテーションをやるようになりました。うまくいかないこともありながら、経験と工夫を重ねることで今では私なりのスタイルを確立し、一応プロのファシリテータとして仕事ができるようになりました。私としては難易度の高いワークショップの依頼があるごとに、自分が成長しているのを感じます。また参加者や企画者のみなさんが喜んでくださるのをみて、あぁよかったなと思います。これは天職だなと。こういうことを自分はやりたかったんだ、と後から分かるというわけです。

 すごいプロフェッショナルの人たちによくよく話を聞くと、だいたい似たような感じですね。たまたま頼まれたからとか、他にやる人がいなくてとか、そういうご縁でその世界に入っていっている人が多いです。

 ということは。天職というのは、ご縁を大切にして感謝して、できそうな範囲で「頼まれたら断らない」という態度でいれば、そのうち行き当たるということではないでしょうか。ミライの職業訓練校はそのような参加者どうしのご縁が「ピンとひらめく」場でありたいと思います。

愛と仕事

みなさんこんにちは。校長の高野です。

「建学の精神/神を忘れた良心は麻痺し、土を離れた生命は枯死する。本校建学の精神は、神を愛し、人を愛し、土を愛する人格形成である。・・・農業は隣人の生命の糧を生産する職業である。農業を具体的な隣人愛の実践であると確信し、土を愛し誇りとよろこびをもって農業に従事する・・・」

三重県伊賀市にある私立の農業高校、愛農高校の教室に掲げられている「建学の精神」の文言です。愛農高校は全国愛農会が運営しています。愛農会は戦後すぐに結成された農業者団体で、キリスト教の信仰をベースに、有機農業の普及を中心に活動しており全国に会員がいます。私はいろいろな宗教を広く浅く勉強していますが、キリスト教を勉強してもピンときませんでした。キリスト教の説く愛というのがあまりに抽象的で高遠な感じがしていたのです。神を愛せと言われても・・・神様から愛されていると言われても・・・という感じですね。

でも愛農高校に行ってこの「建学の精神」を読んで腑に落ちた気がしました。日々の野良仕事が愛の実践であったのです。

働くことが愛の実践であるような働き方。その愛とはキリスト教で説かれるものだけに限る必要もなく、また農業に限られるわけではないと思います。どんな信仰をもつものも、あるいは持たないものも、さまざまな職業・生業において、そのような働き方を追求することができます。

私たちの働き方に決定的に不足しているのは愛なのではないでしょうか。農家が土を愛するように対象となるモノを愛し、お客様を愛し(「お客様は神様です」という打算的な関係ではなく)、いっしょに働くものを愛する働き方ができたらどんなにすばらしいでしょう。

ミライの職業訓練校はそのような働き方を、照れずに臆さず追求できる場でありたいと思います。

(つづく)

 

結(ゆい)という知恵

みなさんこんにちは。校長の高野です。

「望むような働き口」とはどのようなものでしょうか。それは私たち一人ひとりが見出していくほかありません。もちろん仕事の内容は大事ですね。でもそれだけでしょうか。

どんなに創造的な仕事内容でも、仕事がとてもストレスになることがあります。一方、どんなに単純労働で肉体的に厳しい仕事でも、楽しくてしょうがないということがあります。

後者の例が、昔の田植えでした。一反の田んぼ(30m四方くらい)を一人で田植えをしろといわれたら、つらいですね。2,3列植えたところで腰をあげてみると、ゴールははるか向こう。絶望的な気分(ちょっとおおげさ?)になります。農作業というのは、機械が入る前はこういう厳しい仕事だらけでした。実際は、田植えは結(ゆい)で行いました。親戚や近所から人手が出てきて、一反の田んぼを10人で田植えする。それを順番に10反やるわけです。

なぜでしょう?必要な労働力としては一人一反を10人がやるのと、10人で10反をやるのとでは同じです。なぜこういうややこしいことをやるかというと、それがつらい労働を楽しみに変えるからです。日本全国通津浦浦を歩いた民俗学者宮本常一の名著『忘れられた日本人』(岩波文庫)には、結で田植えをする女たちの会話が記録されています。ぺちゃくちゃおしゃべりしながらの田植え。だんだん話題は下ネタに。気づいたら一枚終わっているわけです。

おばあさんたちに聞くと、田植え歌を歌いながらの田植えは昔は華やかで楽しいものだったということです。結というのはつらい労働を楽しみに変える先人の知恵なのです。

このような田植えは、機械が入ってきて消滅しました。一家で一台の田植え機による田植え。そこに楽しいおしゃべりはありません。

ここに私たちにとっても大きなヒントがあるような気がします。

(つづく)

「いなかには仕事がない」はまちがい?

みなさんこんにちは。校長の高野です。

いなかには仕事がない、だから若い人が出て行って過疎になった。多くの人がそう思っていると思います。私も最近までそうでした。でもこれがまちがいということに気づきました。

というのは、いなかにもいろいろな事業所があります。自動車の部品工場、観光施設、専業農家、林業事業体、建設会社などです。そういうところで話を聞いていくと、どこも人手不足で困っています。募集しても集まらない。結局、外国人の研修生が働いていたりします。つまり、いなかには働き口は実はたくさんあるのです。

でも、働き手がいない。ということはつまり、働き口がないわけではなくて、「望むような働き口」がない、ということではないでしょうか。

では、「望むような働き口」とはどのようなものでしょうか。例えば単純作業の連続はイヤだ、長時間働くのはイヤだ、ということでしょうか。

でも何かひとつの事業をやっていこうとすれば、時には単純作業や長時間の作業も必要です。例えば最近若い人に人気が出てきた農業もそういう仕事です。収穫した豆から売り物になるものを選別する作業は、単純作業を延々と続けなくてはいけません。でもそれを楽しんでやっている若い農家はたくさんいます。作業の内容そのものの問題ばかりとは言えませんね。

では、何があれば「望むような働き口」になるのでしょうか。この問いに受講生それぞれが答えを出す。これがミライの職業訓練校がめざすところです。

(つづく)

 

ミライの職業訓練校へようこそ

みなさんこんにちは。校長の高野です。

いよいよ8月8日よりミライの職業訓練校の開校です。受講申し込み絶賛受付中です。ぜひご検討ください。

ミライの職業訓練校は、いろいろな側面があります。ひとつは山里へ移住したい人への支援です。いなかで暮らしたい、子育てしたいと思っているけど、いろいろ不安もある、という方に最適です。いなかに定期的に通って、移住した先輩たち、地元の方たち、同じ思いの仲間たちと人脈をつくり、いろいろと話を聞くなかで、具体的にどうすればよいかが見えてきます。

もうひとつは、新しい時代の働き方を模索する場であるということ。今の仕事は給料はそこそこもらえるけれども、何をやっているか分からない、結局利益を上げることが目的で、その結果として世の中が悪い方向に進んでしまう。そういう働き方をがまんして続けるのは、心にも体にもよくありませんね。とはいえ、自分に何ができるのか?そういうモヤモヤをもってご参加ください。

ミライの職業訓練校は、参加者がそういうモヤモヤをもちよるところからはじまります。モヤモヤは資源です。モヤモヤには新たな飛躍のヒントがいっぱい隠れています。みんなでモヤモヤを出し合い、対話することでそのようなヒントを見つけていきます。

(つづく)